リレーエッセー 第54弾

1980年代ドイツ・ヨーロッパの思い出

武藤 厚也(学10C)

私は1983年から88年までの5年間、当時の西ドイツのDusseldorfで過ごしました。四半世紀が過ぎましたが今なお残る思い出の幾つかの紹介です。

 
  • Spargel (シュパーゲル 白アスパラガス)
  • 着任して間もない4月のある日。地元取引銀行からランチの招待を受けました。瀟洒な清潔感にあふれた銀行協会付属レストランの一室。スープの後に出てきたメインディッシュは真っ白な皿に載った茹で白アスパラガスとバターソース。ハムが少し添えられていました。 えっ、野菜がメインディッシュ、これだけ? と戸惑いましたが同行のスタッフを含めドイツ人の皆さんはとても嬉しそうにはしゃいでいます。何か説明してくれるのですがもう一つよく分からない。でも口に入れるとかすかな甘みととろけるような味。ドイツ白ワイン(辛口)と共に頂いたその時の美味しさを鮮明に記憶しています。その後ひと冬を過ごしてから何故地元の人たちがSpargelに興奮するのかが分かりました。長い長い冬が終わりいっせいに花が咲き始める春を象徴するように登場する野菜料理だからです。最近は日本でも見かけることがありますが何か感じが違います。


  • Hund(犬)
  • 「ドイツでは(人間の)子供よりHundの方が多い」というのが当時の駐在員仲間での話題でした。犬種も大小あれこれと豊富。大型犬でもしっかりと訓練されておりレストランのテーブルの下で何時間でもおとなしくしています。生後3ヶ月で我が家の一員になったウエスティーのZeus君は小型ながら雄々しくて賢い仔でしたが、この訓練をさぼったため他の犬に吠えることがあり恥ずかしい思いをしたこともあります。近くの公園に野ウサギが沢山いて、追いかけるのが大好きでしたがウサギは逃げ足早く馬鹿にされていました。彼は帰国後阪神大震災に遭うなど波乱の一生を送りましたが、私ども家族の駐在時代の思い出話には必ず登場します。今では千の風になって故郷に戻りあの公園で遊んでいるのだと思っています。

    ペットの方が多いのは今の日本も同じですね。そういえば人間の高齢化もドイツの方が進んでいました。ドイツのお年寄りは総じて正装をしての散歩が大好きでした。男性の場合ネクタイを締めスーツを着込んでのスタイルです。 細かな雨によく見舞われるのですが、こちらの男性はLondonのジェントルマンとは違い傘は持つだけでなく差していましたが。すれ違えば必ず大きな声での挨拶 Guten Tag(こんにちは)など。お陰で小さかった娘も大きな声で挨拶をする習慣が身に付きました。


  • Urlaub(ウアラウプ 長期バカンス)
  • ドイツ人のバカンス好きは有名ですが、年間バカンス休暇30日は既に制度的にも習慣的にも定着していました。額はそんなに多くなかったけれども会社からUrlaub手当なるものを支払っていた記憶があります。

    もともと労働時間も短いうえにそんなに休んで対外競争力は大丈夫? 着任時の素朴な疑問でした。でも当時のDeutsche Mark (DM ドイツマルク)は米ドル、英ポンド、他の欧州大陸通貨に対し圧倒的な強さをもっていました。拮抗していたのは日本円のみ。徐々に分かったその理由は彼らの勤勉性と勤務時の集中力の高さ。勤勉性は我々も負けないとは思いましたが、集中力と合理的精神に基づく効率性の高さは群を抜いていたと思います。

    「ドイツ人はバカンスの為に一年を働いている」などと揶揄されていましたが、住んでみてはじめてその理由が分かりました。体が必然的に太陽を求めるからです。8月の終わり頃から寒くなり翌4月半ばまで続く長い冬。寒さもさることながら低くたれ込めた灰色の雲と長い夜。夏のバカンスで太陽の光を十分に浴びたい欲求はひと冬を過ごしてよく理解出来ました。

    DM建で給料が支払われていた日本人スタッフには周辺諸国への旅行はありがたいことでした。私たち家族もドイツ人ほどでないにしてもかなりの頻度で内外の旅行を楽しみました。困ったこともありました。電圧はどこも200vでしたが、コンセント・プラグが国により少しずつ違う。旅行先でも時にはご飯を食べたい家族のために家内はミニ電気釜を持参してくれましたがそれには変圧器と共にいくつかのプラグが必要でした。

    ドイツ国内をはじめヨーロッパ各地への旅行についてはそれぞれの思い出がありますが、その中の一つがポルトガルのロカ岬。行かれた方もあると思いますが、欧州大陸最西端の岬。ここに立つと180度以上の角度で大西洋が展望でき、大航海時代の探検家たちがここで地球は間違いなく丸いと信じたであろうことが実感できました。


  • Berliner Mauer(ベルリンの壁)そしてCheckpoint Charlie
  • 日常生活で意識することはあまりなかったのですが、1980年代は東西冷戦が最後の危機を迎えそして終結に向かった時期でもありました。

    Dusseldorfにおける生活拠点はライン川を挟み事務所が右岸、自宅が左岸にありました。もしも東独・ソ連軍が国境を超えて進入してきた場合は3時間で到達する、そしてNATO・西独軍はライン川に防衛線を張るので、毎日通勤で通っている橋を含め近辺の橋は爆破されると、さる駐在武官の方より聞いたときは驚きました。

    東独領域内に「ベルリンの壁」に囲まれて存在していたのが当時の西ベルリン市。第二次大戦の廃墟の跡がまだ残っていた東ベルリンに比べると繁栄はしていましたが、街には緊張というか独特の雰囲気にありました。ベルリンフィルコンサートホールで聴いたチャイコフスキー交響曲の何とも言えない刹那的な音色がまだ耳に残っています。

    東西ベルリンを通過する際に設けられていた(国境)検問所が「チェックポイント・チャーリー」です。そこには銃を持った警備兵に加え、検問を受けるバスやトラックの下に大きな鏡が入れられ西への脱出者をチェックしていた異常な光景がありました。ところが帰任直前の88年3月に家族で東ベルリンへ旅行したとき、何故かここでの雰囲気がこれまでと変わったと感じました。ベルリンの壁は89年11月に崩壊し、翌90年10月に東西ドイツは統一されました。


  • Atomkraftwerk Tschernobyl(チェルノブイリ原発)
  •    

    (旧)天皇誕生日でもあった86年4月29日、スウェーデンで高濃度の放射能が検出されたという衝撃的なニュースが現地のTVや英国BBCで放映されました。海外にいても平和ボケだった我々日本人でも大変なことが生じたと感じました。東西冷戦の最前線で米ソの核兵器に身を晒されていたドイツの人たちはより敏感で、人によってはいよいよと感じた人もいたそうです。3日前に発生したチェルノブイリの原発事故をソ連政府が発表したのはそのすぐあとでした。当時は原子力発電の危険性についてそれほどの認識がなかったので、核兵器使用によるものでなかったと分かり周りのドイツ人スタッフも含め何故か少しほっとした記憶があります。しかし放出された放射性物質はソ連邦・スカンジナビア・ブリテン島を経て風向きが変わってドイツに流れて来ました。

    普通のニュースでも英語やドイツ語を把握するのは難しいのに、この報道は分からないことだらけでした。 周囲の皆さんの力を借りて大気と土壌の汚染があることが分かり、その対策として窓や戸を常に閉めておくこと、子供を外で遊ばせないこと、牛乳が当分飲めないこと、キノコや野菜も危ない等々、その対策で家内は大変苦労したようです。いま福島の方がご苦労されているに近いことを私どもも25年前に体験しました。

    特に野生動物への影響が強かったようです。日本では「ジビエ」の名前で通っていますが、鹿・猪など野生の鳥獣肉料理はドイツではwild(ヴィルト)と呼ばれ、もともと狩猟民族であったヨーロッパでの秋の豪華な料理です。癖があって日本人の舌には厳しいという方もおられましたが、私は年に1〜2回、渋みが強く濃厚なボルドーワインと共にこの料理を頂くことを楽しみにしていましたが事故のあとは断念しました。


あとがき

わずか四半世紀前のことだが、間違いなくあの時代のヨーロッパは既に歴史となっている。EURという通貨は存在していなかったし、EUもその前身はあったものの今のような体制ではなかった。当時イギリスではヨーロッパといえば自分のことではなく、欧州大陸のことだという認識が一般的であったと思うが今はどうなんだろう。東西対立のあのころ常に耳にした言葉 Ost und West(東と西)。今は懐かしい言葉になっているのだろうか。

駐在員にとって自分が駐在した国を好きになれること、これほど嬉しいことはない。私もドイツが大好き。仕事面での相手は銀行マンなど金融・会計関係中心だったが、皆さん議論好きで相手の言うことを聞くことも好き。自分と異なるものへの大きな好奇心。 彼らの夜はプライベートタイムなので仕事先との会食はランチ中心。でもそのランチタイムが平均3時間は続く。当初は途中で話す材料がとぎれる心配もしたが徐々に克服。といっても私は外大卒ながらプアーな語学力。ドイツ語も現地で覚えた。 あえて言うならば彼らにも英語は外国語だったから助かったのかも。彼らの格言「黙っているのは馬鹿の証拠、言いたいことを相手に分からせる気合いが必要」と。それとユーモアとタイミングのよいジョーク。これらをこちらも活用し知っている英語・ドイツ語をフル活用したから長い会食を楽しめたのだと思う。後輩の学生諸君と話していると海外で生活することにあまり積極的でないようにも伺えるが、外に出て互いに異なる考えや価値観をぶつけ合い知的なbattleを楽しめるようになって欲しいと思う。

最後に、私の理解する限りヨーロッパは人種、言語、歴史、気候、宗教、それぞれが少しずつ異なり、それが故の面白さと危なっかしさが随所にある。だからEUの標語 In varietate concordia(多様性における統一)が光ってくるのだろう。

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2023年7月26日

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